ノーレン, アンドリュー
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【パデレフスキの唯一の歌劇《マンル》、初のドイツ語上演録音!】ロマの若者マンルと禁断の恋に落ちた娘ウラーナは、母親からも村からも拒絶されてしまいます。村を出てロマとともに放浪し、子供を授かったウラーナとマンルは数々の苦難に直面、マンルが妖女アーサの誘惑に負けたことを知りウラーナは湖に身を投げます。本来はこの場面で終幕となりますが、後にパデレフスキはエンディングを変更、恋人のアーサを奪われたオロスが復讐のためにマンルを湖に突き落として幕となります(この上演ではこちらのエンディングが用いられています)。ピアニスト・作曲家として活躍するとともに、第1次世界大戦後に発足したポーランド第二共和国の首相を務めたパデレフスキ。これは彼の唯一の歌劇《マンル》の全曲を収録したアルバムです。人種差別問題をテーマに、ハンガリーとポーランド民謡の要素をワーグナー風の重厚な音楽に採り入れたこの作品は、ドイツ語の台本により1901年5月29日、リヒャルト・シュトラウスのいくつかの歌劇の初演者でもあるエルンスト・フォン・シューフの指揮でドレスデン宮廷歌劇場で初演され大好評を博し、直後ポーランド語に翻訳され同年6月8日にルヴフ(現リヴィウ)、翌年にはワルシャワでも上演されました。初演時にウラーナを歌ったのは《エレクトラ》の題名役を務めたアニー・クルル。ウロク役も当時ワーグナー歌手として知られたカール・シャイデマンテルが歌うなど、かなり力の入った配役でした。1902年にはメトロポリタン歌劇場で上演され、この歌劇場で上演された唯一のポーランド歌劇となりましたが、残念なことに以降アメリカで上演されることはありませんでした。ポーランドでは1930年をはじめ、1961年にはパデレフスキ生誕130年を記念してポズナンとワルシャワ、2001年にはヴロツワフ歌劇場で演奏されています。ハレ歌劇場でのこの上演はオリジナルのドイツ語で行われ、歌劇場のプリマドンナ、ロメリア・リヒテンシュタインと、優れたヘルデンテノールとして活躍するトーマス・モールが主役を務め、全体をまとめる指揮者ミヒャエル・ヴェンデベルクが作品の持つ魅力を存分に引き出しています。(2024/04/12 発売)
レーベル名 | :CPO |
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カタログ番号 | :555553-2 |
1768~69年頃、ハイドンがエステルハーツィ候ニコラウスに仕え始めた頃に書かれた「ミサ曲 第2番」はアイゼンシュタットのベルク教会のために作曲されたとされています(聖母マリアの祝日のために演奏された後は、聖ヨゼフの日にも使いまわされたようです)。全編に渡ってオルガンが活躍するため「大オルガンミサ」と呼ばれます。ハイドン自身がオルガンを演奏し、喝采を浴びたのではないでしょうか?曲調も全体的に明るく、快活で喜びに満ちた美しいものです。そのほぼ30年後に書かれた「オッフィーダの聖ベルナルドの賛美のミサ」は、サンクトゥスの部分に古い聖歌が使われていることで「ハイリゲ・ミサ」としても知られています。一度はロンドンに永住しようと考えたハイドンですが、結局ウィーンに戻り、この曲が書かれた1796年にはエステルハーツィ家の楽長に再就任、2代目当主のために書かれたミサ曲です。合唱パートがとりわけ充実していて、60歳を超えたハイドンの旺盛な創作意欲が感じられる傑作です。(2010/12/15 発売)
レーベル名 | :Naxos |
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カタログ番号 | :8.572125 |
「ミサ・ブレヴィス」とは「小さなミサ」という意味。1749年、変声期を迎えた17歳のハイドンはそれまで活躍していた聖歌隊を去らなくてはいけませんでした。この時、彼が今までの音楽的成果を表すために作曲したのがこの曲だと言われています。知識不足を補うため、彼は当時有名な作曲家であったポルポラに会い、イタリアの音楽様式について学んだのもこの時期です。小さいながらも充実した書式で書かれた溌剌とした音楽です。一方、第12番「ハルモニー・ミサ」は1802年、70歳の時の作品。ハイドン最後のミサ曲で、すでに「天地創造」や「四季」などの傑作をものにしていた彼ならではの堂々とした作品です。1802年9月8日。エステルハージ公爵夫人の命名日を祝う日のための演奏会で初演されました。ここでいう「ハルモニー」とは木管合奏の意味。充実した管楽器の響きが随所に現れる感動的な大作です。ニューヨーク・トリニティ教会合唱団の艶やかな歌声が胸に迫ります。ミサ曲の番号表記は、ブライトコプフ社の旧全集での通し番号に拠ります。(2011/02/16 発売)
レーベル名 | :Naxos |
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カタログ番号 | :8.572126 |
1805年、73歳を迎えたハイドン(1732-1809)は、若かりし頃に書いた「ミサ・ブレヴィス」にフルート、クラリネット、ファゴット、トランペット、そしてティンパニを加え、豊かな響きに改作しました。これは当時彼の作品を出版していたブライトコップ&ヘルテル社の依頼に応じて、若書きの作品に手を加えたのですが、結局のところ出版されることはなかったようです。もう1曲の「天地創造ミサ」は、オラトリオ「天地創造」の引用があるため、この名前で呼ばれます。女帝マリア・テレジアの聖名日である1801年9月13日に初演された晩年の作品で、流麗なメロディと力強さに溢れた秀作です。(2011/04/13 発売)
レーベル名 | :Naxos |
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カタログ番号 | :8.572127 |
ハイドン(1732-1809)のミサ曲全集の第8集です。こちらでシリーズは完結となります。「小オルガンミサ」は1775年頃の作曲で、エステルハージ家の本拠地であるアイゼンシュタットの「慈悲の友修道会」のために書かれています。この教会の修道士たちは、医者としても高い能力を有していて、音楽の治癒力にも絶大なる信頼を置いていました(現在でもリハビリ施設のある病院として知られています)。ハイドンも胃の万能薬を始め、ハーブティー、歯磨き粉などを与えられたそうです。この教会はとても小さかったため、ミサも必然的に小さいものとなったようです。もう1曲の「テレージア・ミサ」はフランツ1世の妃マリア・テレージアのために書かれたと言われていますが、現在ではこれは否定されています。彼女は献呈を受けたのではなく、溺愛するハイドンのミサ曲を自ら蒐集し、コレクションの中に加えていたのでした。1799年、ハイドンの円熟期の充実したミサ曲です。なおミサ曲の番号表記は旧全集に拠っています。(2011/06/15 発売)
レーベル名 | :Naxos |
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カタログ番号 | :8.572128 |
エステルハージ侯ニコラウスの聖名日のために作曲された、初期の傑作「聖ニコライミサ」は1772年の作品です。この年は、あの有名な「告別交響曲」が書かれた年。ニコラウス侯の夏の休暇が例年よりも延びてしまったことに対して、その作品で不満を訴えたハイドン。その意向を汲んで楽員たちを解放したニコラウス侯。そのお礼も込めてこのミサ曲が書かれたとも言われています。もう1曲は、ハイドン自身が「深き悲しみのミサ」と呼んだ劇的な作品です。ネルソン率いる艦隊がナポレオンの艦隊を打ち破ったという報を訊いたハイドンが、その感激のあまり、ベネディクトにトランペットのファンファーレを付け加えたことから「ネルソン・ミサ」と呼ばれます。この演奏は、オリジナル楽器によるもので、既発のドラホシュ盤(8.554416)との聴き比べも興味深いところです。(2010/08/18 発売)
レーベル名 | :Naxos |
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カタログ番号 | :8.572123 |