第11回
サリエリ(サリエーリ):
歌曲集
『サリエリ(サリエーリ): 歌曲集』
Hungaroton レーベル
クリスティナ・ラキ(ソプラノ), ガボール・コーシャ(ピアノ)
ストリーミング
概説:サリエーリの歌曲作品
ピアノ伴奏の歌曲は1780年代から現れるが、娯楽の中心がオペラだったことから歌劇のアリアを編曲した楽譜が人気を博した。それゆえオリジナルの作品は少なく、モーツァルトが作曲したピアノ伴奏歌曲も約30曲にとどまる。形式は一つの旋律を複数の詩節で繰り返す有節歌曲が大半で、前奏や後奏の無い歌曲も数多く書かれた。
モーゼルの『サリエーリ伝』によれば、サリエーリは1794年頃にはすでに音楽愛好家向けの歌曲や重唱曲を作曲していたが、まとまった形の出版は1803年にウィーンのヴァイグル社が刊行した《28の声楽ディヴェルディメント集Venti otto Divertimenti Vocali》が最初である。その第1集には12曲(I-XII.内訳は独唱8、二重唱2、三声合唱2)、第2集に8曲(XIII-XX.内訳は独唱4、三重唱4)、第3集に8曲(XXI-XXVIII.内訳は独唱2、二重唱2、三重唱4 [うち1曲無伴奏])が掲載されている。歌詞はすべてウィーン皇室詩人ピエトロ・メタスタージオ(Pietro Metastasio,1698-1782)の詩歌やオペラのアリアから採られている。
メタスタージオの詩は古典期の理想とされ、サリエーリはイタリアの声楽曲を学びに来たベートーヴェンや弟子シューベルトにそのテキストを与えて作曲させ、添削した。サリエーリ自身もウィーンで生活を始めてすぐに晩年のメタスタージオから詩の朗読法を学び、この分野のエキスパートだった。
イタリア語の歌曲とは別に、サリエーリはドイツ語とフランス語の歌曲も作曲した。ドイツ語の歌曲はリートLied[独]と呼ばれるが、芸術リートは18世紀末に始まりシューベルトによって確立されたというのが定説で、サリエーリ、モーツァルト、ハイドンなどのそれは黎明期の作品に位置する。フランス語の歌曲も同様に、古典期の作品はロマンスRomance[仏]と称され、19世紀の芸術歌曲メロディMélodie[仏]とは区別される。
サリエーリは教育用も含めて多数の室内声楽曲(独唱、二重唱~六重唱)を作曲し、イタリア語の歌曲は旋律重視のタイプと1音節1音符のシラブル様式に分けられる。どちらも簡潔で、ピアノ伴奏も単純である。ドイツ語の歌曲は有節もしくは通作形式でピアノも雄弁に関与し、フランス語の歌曲は有節的でリフレインを伴うなどの違いがある。
次に、クリスティナ・ラキのアルバムから14曲を選んで分類し、解説を記しておく。
『28の声楽ディヴェルディメント集』第1集
(ウィーン、ヴァイグル社、1803年。ウィーン国立図書館所蔵)
メタスタージオの詩によるイタリア語歌曲
Track 01
美しい唇
Bel labbri
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『28の声楽ディヴェルディメント集』第7曲。ト長調、4分の3拍子、アンダンテ。メタスタージオの詩「嫉妬La Gelosia」を用い、平易なピアノ伴奏で「私はもう恐れない。あなたを信じ、あなたを信頼する。あなたは私を愛してくれると誓ってくれた。それで十分です」と、恋人ニーチェへの愛を誓う。明るく爽やかな曲調の中に感情を豊かに盛り込んだ歌曲。
Track 02
晴れやかに戻っておくれ
Tornate sereni
『28の声楽ディヴェルディメント集』第17曲。歌劇『スキロスのアキッレ』第3幕第4景アキッレのアリアを歌詞とする歌曲。ト長調、4分の2拍子、アンダンテ。「晴れやかに戻っておくれ、美しい愛の星々よ」と始まるが、基本的に恋人を称える歌。最後にオクターヴの下降パッセージを3回歌い、華やかに終わる。
Track 03
愛しい人、私はこのようにあなたのものです
Caro, son tua cosí
『28の声楽ディヴェルディメント集』第22曲。歌劇『オリンピーアデ』第3幕第2景アリステアのアリアを歌詞とする優美な歌曲。イ長調、4分の2拍子、アンダンテ・ウン・ポコ・ソステヌート。「愛しい人、私はこのようにあなたのものです。愛の力のおかげで、あなたの心の動きを私も強く感じます」と、恋人への誠を誓う。第2節でイ短調に転じ、第1節の歌の冒頭からダ・カーポする。
Track 04
心地よい日陰
Ombre amene
『28の声楽ディヴェルディメント集』第16曲。セレナータ『アンジェリカ』第1部リコーリのアリアを歌詞とする歌曲。変ホ長調、4分の4拍子、ラルゲット。「心地よい日陰、優しい植物、私の愛しい恋人よ、誰が私に彼女の行方を言ってくれるのか?」と始まる。穏やかな曲調で、ピアノの軽やかなトリルでそよ吹く西風を表す。なお、最後のカデンツァはラキによる付加である。
以上4曲は、メタスタージオのテキストによるサリエーリの標準的なイタリア歌曲である。歌詞はダ・カーポを想定した2節からなるが、極端な変化を付けずに詩に盛られた感情や情緒を音楽に反映させ、短くまとめている。
次に、ドイツ語の歌曲に耳を傾けてみよう。
ドイツ語の歌曲
Track 06
私の未来の恋人に
An die zukünftige Geliebte
クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・ライシヒ(Christian Ludwig von Reissig,1784-1847)の詩に作曲し、1810~11年にライプツィヒで出版されたリート。「至福のメロディの中で甘美な5月が目覚めた」と始まる詩は、美しい春の訪れに陶酔し、胸が一杯の喜びの中で未来の恋人に思いを馳せる。軽やかで晴れやかなピアノの前奏と伴奏で歌われる爽やかな歌曲。
Track 07
私の心は軽い
Wie ist mir leict ums Herz
これはジングシュピール『煙突掃除人』(1781年)第3幕第8景フレンツルのアリアのピアノ伴奏編曲であり、厳密には歌曲でない。8分の3拍子の明るい曲。
Track 08
満足している男
Der Zufriedene
前記ライシヒの詩に作曲し、1816年にウィーンのモッロ社から出版された有節歌曲。私は金持ちや偉大になる幸福に恵まれなかったが満足している。私にぴったりの友人を与えられたから、と人生を前向きに捉える。サリエーリはピアノ伴奏に三連音符を連続させ、晴れやかな気持ちを表現している。なお、シューベルトが同じ詩による歌曲を1815年10月23日に作曲(D320)、これに先立ちベートーヴェンも1809年に作曲している(『6つの歌』作品75の第6曲。1810年ライプツィヒ刊)。サリエーリはこの2曲を知っていたのだろうか?
・シューベルト:「満足している男」D. 320
・ベートーヴェン:6つの歌 Op. 75 – 第6曲「満足している男」
Track 09
5月の歌
Maylied
前曲と同じライシヒの詩による有節歌曲。溌溂としたピアノ伴奏で春の訪れを喜ぶ気持ちを表現し、私たちは今日だけを生きる。明日のことは考えず、幸せな歌、自然を称える歌を歌い、一緒に踊ろうと歌う。
フランス語の歌曲は次の4曲が収録されている。
フランス語の歌曲
Track 14
ウィーンから離れるとき
Quand de Vienne je m’éloignois
ディスクの曲名は「ウィーンから離れるとき」だが、1806年1月26日ブダペストで作曲された歌曲「パンノニの良き国への別れ Adieu au bon pays de Pannonie」と思われる。優美なピアノ伴奏で歌われる感傷的な有節ロマンスで、ウィーンを去る悲しみを歌い、各節の終わりに「パンノニの良き国へ au bon pays de Pannonie」と繰り返す。パンノニはドナウ川周辺の一帯を指す古代の地方名で、ラテン語のパンノニアPannoniaに起源を持つ(現在はハンガリーの一部地域)。
Track 15
それは悪
Il est mal
「それは私たちを焼き尽くす悪、あらゆる場所で、あらゆる時に」と始まるフランス歌曲。最後にその悪の正体を「アンニュイ(退屈/憂鬱)」と告げる。詩の内容と詩句を丁寧に語るスタイルが通常のロマンスと異なり、芸術歌曲風であることから後期の作と推測されている。
Track 16
私が欲しいもの
Ce que je desire
「私が欲しいもの、私が愛するもの、それはいつも君」と始まる有節ロマンス。恋人への熱い思いをシンプルな伴奏で繰り返す。
ここまで聴いたサリエーリの歌曲11曲は、心地よい音楽の中にイタリアのカンツォネッタやアリエッタ、ドイツ・リート、フランスのロマンスの特色が摂取されている。けれども詩の情緒や雰囲気を音楽で表す曲が多く、テキストの内容に深く根差す朗誦風の作品は無い。これはベルカント(美しい旋律と声の用法)や音楽の自律性を好むイタリア人気質も関係しており、19世紀半ばまでのイタリアでは芸術歌曲に分類しうる作品は書かれなかった。
最後にこのアルバムから、趣向の異なる歌曲を3つ聴いておこう。
Track 11
頌歌
Ode
これは1782年にウィーンのアルタリア社から出版された比較的初期の作品。アリア~レチタティーヴォ~アリアからなるピアノ伴奏カンタータの一種で、23歳の女弟子マリアンネ・アウエンブルッガー(Marianne Auenbrugger,1759-1782)のために作曲された。マリアンネの父ヨーゼフ・レーオポルト・アウエンブルッガーはサリエーリが結婚する際に立会人を務めた内科医で、ジングシュピール『煙突掃除人』の台本も執筆した。
「ああ、なんて心地よい、だめだ、吹かないでおくれ、甘い西風よ、私の周囲で」と始まる詩の作者は不明で、歌詞に「優しいマリアンナ!」を含み、マリアンネ・アウエンブルッガーの美徳を賛美する内容となっている。アリアに当たる部分は他の歌曲よりも入念に彫琢され、2つ目のアリア(3:48-)は憧れに満ちている。
Track 18-19
この暗い墓の中で
In questa tomba oscura
これは1806年に詩人ジュゼッペ・カルパーニ(Giuseppe Carpani,1751-1825)が即興的に生んだ詩に貴族のアマチュア音楽家と有名作曲家46人が付曲した63曲をまとめたアルバム『この暗い墓の中で。数多くの作曲家が異なるやり方で作曲したピアノ=フォルテ伴奏のアリエッタIn questa tomba oscura, Arietta con accompagnamento di piano-forte composta in diverse maniere da molti autori』の中の2曲である(1808年ウィーンのT.モッロ社から出版)。サリエーリ以外の作曲家にパーエル、ジンガレッリ、ベートーヴェンがおり、1791年生まれのモーツァルトの息子フランツ・クサヴァー・ヴォルフガングとチェルニーの曲も掲載されている(どちらも17歳で作曲)。カルパーニによる歌詞は次のとおり。
この暗い墓の中で、私を休息させてください。
私の生前、不実な女よ、私のことを考えるべきだった
せめて暗い影が、平安を守るままにしておくれ
そして私の遺骸に、いたずらに毒を注がないでおくれ。
[18]はニ短調、4分の2拍子、ウン・ポコ・レント。弱音器付き(con sordino)と指定されたフォルテピアノを伴奏に和音を3回鳴らす前奏で歌われ、単純な中にも詩句を丁寧に吟じる1音節1音符のシラブル様式で書かれている。
[19]はイ短調、4分の2拍子、アンダンテ・アパッショナート。付点音符の前奏で悲劇的な雰囲気を醸し出し、死んでなお不実な女に執着する苦しみを単語や詩句を反復して強調し、前奏と同じ音楽の後奏で締め括る。
サリエーリの歌曲「この暗い墓の中で」2種の初版楽譜
(ドレスデン国立図書館所蔵)
付記
サリエーリ以外に聴ける曲にヨーゼフ・ヴァイグルとベートーヴェンの作があり、ベートーヴェンのWoO 133(第2稿)は中間部で起伏の大きな音楽に転じる。
・ベートーヴェン:「この暗い墓の中で」WoO 133
これに対し直弟子ヴァイグルの曲は、サリエーリと同様シンプルな作りで雰囲気も似ている。
・ヴァイグル:「この暗い墓の中で」
以上、クリスティナ・ラキのアルバムからサリエーリの14の歌曲を紹介した。なお、解説を省略した[20]~[25]の6曲も『28の声楽ディヴェルディメント集』の楽曲である。
【執筆者】
水谷彰良 Akira Mizutani
1957年東京生まれ。音楽・オペラ研究家。日本ロッシーニ協会会長。著書:『プリマ・ドンナの歴史』(全2巻。東京書籍)、『ロッシーニと料理』(透土社)、『消えたオペラ譜』『サリエーリ』『イタリア・オペラ史』『新 イタリア・オペラ史』(以上 音楽之友社)、『セビーリャの理髪師』(水声社)、『サリエーリ 生涯と作品』(復刊ドットコム)。日本ロッシーニ協会ホームページに多数の論考を掲載。
【ツアー】
水谷彰良同行ツアー「サリエーリ(サリエリ)に逢いにいく」&連載「見るサリエーリ」(郵船トラベル)