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【インタビュー】「蜜蜂と遠雷 音楽集」に携わるプロフェッショナルたち ~ Vol.4 音楽評論家・青澤隆明さん

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発売から約1週間、たくさんの方に好評をいただいております「蜜蜂と遠雷 音楽集」。
ナクソス・ジャパンでは、この制作に携わったキーパーソンにお話をうかがいます。
第4回目は、このCDのプログラムノートを執筆してくださった、音楽評論家の青澤隆明さん。
著者・恩田陸さん直々のご指名で登場楽曲の解説を書いてくださった青澤さんに、クラシック音楽の評論家という立場からみた本作の魅力について、語っていただきました。


取材・文●劉優華



青澤隆明

青澤隆明●音楽評論家
Takaakira Aosawa

1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。高校在学中から音楽専門誌への寄稿を始める。「レコード芸術」、「音楽の友」、「ミセス」、「北海道新聞」などで定期的に執筆。評論、インタヴュー、ライナーノーツ、レクチャーのほか、コンサートや放送番組の企画構成も行う。著書に『現代のピアニスト30−アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)など。





インタビュー


 ────まず、クラシックの音楽評論家というお仕事について、教えてください。

 文字どおり、“音楽を言葉で論じること”でしょうか。音楽にはさまざまな側面や要素がありますが、特にクラシックに関して言うと、作品を書いた作曲家がいて、楽譜を出版した人、演奏する人、そして聴き手である私たちがいます。それぞれが音楽や作品に対する考えや、人生全般に対する考えをもっていますね。そのなかで、作品がここで演奏され、いま聴くことに意味があり、その演奏に説得力があるものかを、誰しもどこかで感じながら音楽を聴いていると思います。コンサートを聴くという営みのなかには、たくさんの人々の時間が流れ込んでいるわけですね。ある音楽の演奏を聴いたときに、「この音楽は果たしてどのようなものだったのか?」ということを考え、感じたことを言葉で伝え、もう一度現代の聴衆のもとに問い返していく。それが書き手としての役目だと思っています。

 この演奏者がしたかったことはなにか。それがその作品にふさわしい表現だったのか。もしそこにズレがあったとき、聴き手として違和感を覚えたとき、そして共感したときに、なぜそのようなことが起こったのかを考えて、検証し、吟味して、それがどのような演奏だったかということについて書いていく。聴いた人がひとつの意見として、あるいは議論の叩き台として活用できるような考えを述べることが評論家の仕事ではないかと思います。

 演奏家がひとつの作品に関わり、作品を読み解いて練習して演奏会で披露するまでには、膨大な時間がかかります。演奏家は“表現者”ですから、自分の表現に徹頭徹尾付き合わなければなりません。いっぽう、聴き手はさまざまな演奏家を聴くことができ、いろいろな作品を調べることができるので、演奏家がひとつの作品に集中して専念した成果に、別の角度から光を当てることができるのではないかと思うのです。

 たとえば、僕は日本人で、日本語を用います。オーストリアやドイツに生まれた人とは違うバックグラウンドを持っています。そういったことも含めて、音楽をどのように受けとめ、どのように感じたかという、自分なりの返答をする。それを読んでいただくことで、またそれぞれの方がさまざまなことを考えるきっかけになればいいなと思っています。


 ────音楽評論家になったきっかけは?

 なったとか、なりたかったとかいうのではなくて、そのような仕事をしていると“音楽評論家”と呼ばれたりするので、僕としてはそれをただ受け容れているだけです(笑)。

 もともと、音楽を聴くことや文章を書くことが好きでした。演奏家ではない立場、自分に合ったかたちで考えていくと、音楽について書くことが自然と楽しくなっていきました。

 音楽を聴いたり、小説を読んだりすると、その作品からなにか“手紙”をもらったように感じることがありますよね。すると、自然と返事を書きたい、という思いをもつこともある。その返事を、作者や演奏家ではなく、聴き手や読者に宛てて、自分が受けとったメッセージとして伝えたいというのが、きっとこの仕事に繋がっているのだと思います。うまく言えませんが、感謝の気持ちを、ひらかれたかたちでまた別の誰かに伝えたい、いま生きている人たちと共有したい、というのが僕の個人的な動機です。


 ────この仕事のおもしろいところは?

 それがいつ訪れるのかわからないけれど、なにかかけがえのない音楽体験をするかも知れないという期待感。ある特別な音楽体験を待つ心得があり、それがごくまれに起こることもあります。そのときには、たんに楽しいとか良かったとかという言葉を超えて、そこにいられたことに意味があるように感じられます。

 いろんな人生や職業がありますが、僕の職業は音楽家とは違います。作曲家でもなく、演奏家でもない、ひとりの聴き手としての立場から、音楽家が目指し、到達しようという地点を、別の立場や角度から見られるかも知れない、そこがおもしろいところですね。そうして、ときには作曲家や演奏家とも、そうした立場からの意見を交わしたり、考え合うことができるのが楽しいです。



青澤



 ────「蜜蜂と遠雷」の魅力とは?

 僕自身は音楽について書くことを生業にしていますので、音楽を言葉で語ることの難しさを意識しないではいられない。小説家が音楽や、音楽家の生をどのように描くということには常々関心がありました。音楽について書かれた作品はたくさんありますが、音楽を言葉でつかまえることって、なかなか難しいですよね。

 そんななかで、当代きってのストーリーテラーである恩田陸さんが、ピアノコンクールをテーマにした小説を書いたことを知りました。老巨匠や過去の作曲家について書いたのではなく、音楽を愛する若者たちの群像として、コンクールを舞台にした小説を書いたというところにも興味が湧きました。そこに、たまたまこの小説の書評の依頼があり、喜んで引き受けた次第です。そして、夢中になって読みました。作家が小説の題材として若い音楽家を選んだというだけではなく、本当に音楽がお好きなだということ、また実際にコンクールを訪ねて感じたことを書かれているのだということもリアルに伝わってきました。

 作中のコンクールにはさまざまな登場人物がいて、おもに4つの声が織りなされるように小説の時間が流れていく。そして、審査員や先生、調律師、聴衆といった多くの人たちが、コンテスタントの周りでそれぞれの時間、人生を生きている。その愛すべき人間たちがうまく絡み合い、物語が進んでいきます。たとえば、バッハやベートーヴェンの作品などでは、いくつかの旋律を組み合わせて、響き合わせたり、重ね合わせたり、追いかけたり、対抗させたりしながら音楽の時間を進めていきます。この小説はそれにもどこかかたちが似ていて、音楽と同じように、物語の推進力がありました。

 なによりも、作家の音楽への愛や憧れ、描き切ろうという強い意志と情熱が感じられたことが、この小説のいちばんの魅力ではないでしょうか。


 ────実際のピアノコンクールってどんな感じなのでしょうか?コンテスタント同士があんなに仲良くなったりするものですか?

 決定的に違うのは、この小説で描かれているような素晴らしい才能の持ち主が、現代のコンクールで3週間も時間を共にすることはなかなか起こり得ないと思います。もちろん、厳しい競争のなかで生きる者同士、音楽に真摯に向き合う者同士の共感が自然と生まれることはあるでしょう。そこになにかしら嫉妬や他人の失敗を願う気持ちも生まれるとして、それはもしかすると大人たちの商業的事情が、少年少女の純粋な気持ちを汚しているということなのかも知れません。

 この小説では、本質的なところだけに焦点を当てて、あえて他の音楽的でない部分は描かなかったのではないかと僕は思います。小説家は自身の音楽に対する憧れ、愛情を清らかに、純化して描こうとしたのではないでしょうか。


 ────この小説が多くの人々に受け入れられた理由は何だと思いますか?

 少年少女のエバーグリーンな物語と言えると思いますが、そこに音楽というものが、なにか世俗の価値を超えた存在や、生きることに直接関わってくる力として強く描かれています。小説に描かれている、才能が余っていたり足りなかったりすることについての葛藤や、自分の望むことをどうやって職業にしていこうかという悩み、自分に持っていないものを誰かが持っているということを理解し、尊重して自分の人生を生きていくということ――これはどの職業、年代、社会のなかでも起こりますよね。それが多感な少年少女の純粋な情熱を通じて描かれることで、ある種、透きとおった、結晶化したかたちで描かれている。その“見通しの良さ”が多くの人の共感を得ているのではないかと思います。



青澤



 ────今回、「蜜蜂と遠雷 音楽集」では、恩田さん直々のご指名でプログラムノートを書いていただきましたが、こだわりポイントや読みどころがあれば、教えてください。

 僕がこの小説を読んで感じたのは、音楽に向き合うことで、いろんな人の人生や時間、背景が否応なく関わってくる。ばらばらの流れが奇跡的にひとつの場所で合流したり、合流しないまでもその場に共に存在する――そこが音楽会の不思議なところです。コンクールという濃密な3週間の時間のなかで、そのような奇跡が集中して起こることが醍醐味であり、かつ恩田さんが丁寧に小説に描かれていたので、僕はいま一度“いろんな人生の重なり合い”について考えながらプログラムノートを書きました。

 このCDには、当然ながら小説の登場人物が実際に演奏したものは1音たりとも収録されていません。この小説を読むと、彼らが弾いた演奏を猛烈に聴きたくなるし、きっとイメージ上の音が小説内にあまねく響いていますが、それは読者ひとりひとりが自分の心の内で想像しながら響かせなくてはならないもの。つまり、ここで描かれた人たちの演奏がどういうものだったかは、読者の感覚や人生のなかでいま一度再創造しなくてはなりません。ふたたび自分の心の耳で聴こうとすること、どんな曲であるのかを知ること、いろいろな人の演奏に触れられることが、音楽を聴く楽しみでもあり、醍醐味だと思います。

 もしかしたら、読者の皆さんが小説を読んで感じた印象と、ここに収録されている演奏の感じは違うかも知れません。共感することもあれば、「マサルはこんな演奏ではないはず!」と思うかも知れない。読み手や聴き手が自分の心に問いかけること――それこそが音楽という営みであり、とても大事なことなのではないでしょうか。またこのCDを聴いた人同士が、それぞれの意見を語り合っていただければいいなと思います。


 ────最後に、蜜蜂ファンの皆様にひとことお願いします。

 小説は、劇的なかたちで突然幕を閉じます。その後、彼らがどう生きていくのかはわかりませんが、この本を読んだ後、読者がどのような人生を歩んでいくかは、自分の手と足、耳と心にかかっています。ですから、この小説の良い“聴き手”でありたいと思うファンの方は、ここで登場人物たちが純度高く清らかに流した音楽というものを、人生のどこかで思い出し、楽しく味わいながら歩んでいただきたいですね。

 そして、音楽はこちらが呼びかければ、必ず近くにあります。音楽が生き物だということをこの小説は教えてくれましたね。読者がめいめいにそれを感じて、それぞれの人生を大切に歩んでくれたら、音楽を聴くということがとても豊かなものになるのではないかと思います。









*「蜜蜂と遠雷 音楽集」アルバム情報ページはこちら

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*インタビューVol.2 装丁家・鈴木成一さんはこちら

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*インタビューVol.3 編集者・志儀保博さんはこちら

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